2014年12月27日土曜日
12月27日
ぐるぐる回る夢。市街と山道が混ざる周回路。登り下り、回を重ねるごとにタイムが縮む。プールで回る。2m程の棒でかきながら進むとトップの人より早く往復できる、皆に棒を報告。表面張力のコツを掴むとふわふわ浮ける。回れと念じるとその場でぐるぐる回る。空を見ながら、ぐるぐる、ぐるぐる、
2014年11月20日木曜日
11月20日
真夜中。豹と目が合った。電気のつかないトイレの窓の網戸を両の手でひっかきこじ開けようとしている。ここにいたら死ぬ、そのくらいはわかって、家の中に戻るが、積み木のように増改築されている家は中も外もない。ひとまず登る、夜風が涼しく、星が綺麗だった。
最上階の広間には家族がいた。各々の部屋があるように、僕の部屋らしき部屋もあって、見覚えがあるのでいつかの夢で居た部屋にまた戻ってきたのだと思う。窓の外に見えたのは豹のほかに蛇、猫、滑らかに僕の視界をすり抜ける。広間からは見えない。見えないだけというのはみんなわかっている。
最寄り駅を寝過ごして降りた駅は、もう一つの終点だった。用途がはっきりしない、終点ということが用途らしい。改札を抜けるとその先にもう一つ改札があって、出ていいのですか、と聞くと、いいですよ、いや、やっぱりだめです、と、捕まり、扉の開かない、好色、男色の暗い部屋。
長い長い夢だったが、時計は15分しか進んでいなかった。
最上階の広間には家族がいた。各々の部屋があるように、僕の部屋らしき部屋もあって、見覚えがあるのでいつかの夢で居た部屋にまた戻ってきたのだと思う。窓の外に見えたのは豹のほかに蛇、猫、滑らかに僕の視界をすり抜ける。広間からは見えない。見えないだけというのはみんなわかっている。
最寄り駅を寝過ごして降りた駅は、もう一つの終点だった。用途がはっきりしない、終点ということが用途らしい。改札を抜けるとその先にもう一つ改札があって、出ていいのですか、と聞くと、いいですよ、いや、やっぱりだめです、と、捕まり、扉の開かない、好色、男色の暗い部屋。
長い長い夢だったが、時計は15分しか進んでいなかった。
2014年11月15日土曜日
夢 11月11日
温泉だ!あ、でもタオルも髭剃りも忘れてきた、、まあ、、でもいっか!入ろ!温泉だ!という夢。
部屋の奥には、アンドロイドがすやすやと眠っていた。声を掛けると寝言を言う。友人とそこで湯につかりながら長い時間を過ごした。生身の本体は遠くにいる。名前も知っている。アンドロイドは終始穏やかな笑みを浮かべていて、最後まで目を開けなかった。友人は次の予定に大幅に遅れて叱られていたし、僕の未読メールは38件になっていた。
宿の三階に行くと親子が大型車を大変な手さばきで乗り回していた。息子は巨大な重機を、母親は4tトラックを、豪快に操っていた。父親は、ノコギリザメのような小さく長い重機を目にも留まらぬ速さで乗り回していたが僕につっこんできて、なぜそんなイライラしてるのか、この怖い重機は何に使うのかと聞いたら、この重機は小さくて古くて、もうなんの役にもたたない、妻や息子にそう言われていて自分もそう思っていると、彼は悲しそうに言った。3台の中ではかっこよさも移動のキレも一番だと思ったのでそう伝えると、うーん、と彼は目を合わせず言い、ちいさい背中を丸めてタバコを吸った。
部屋の奥には、アンドロイドがすやすやと眠っていた。声を掛けると寝言を言う。友人とそこで湯につかりながら長い時間を過ごした。生身の本体は遠くにいる。名前も知っている。アンドロイドは終始穏やかな笑みを浮かべていて、最後まで目を開けなかった。友人は次の予定に大幅に遅れて叱られていたし、僕の未読メールは38件になっていた。
宿の三階に行くと親子が大型車を大変な手さばきで乗り回していた。息子は巨大な重機を、母親は4tトラックを、豪快に操っていた。父親は、ノコギリザメのような小さく長い重機を目にも留まらぬ速さで乗り回していたが僕につっこんできて、なぜそんなイライラしてるのか、この怖い重機は何に使うのかと聞いたら、この重機は小さくて古くて、もうなんの役にもたたない、妻や息子にそう言われていて自分もそう思っていると、彼は悲しそうに言った。3台の中ではかっこよさも移動のキレも一番だと思ったのでそう伝えると、うーん、と彼は目を合わせず言い、ちいさい背中を丸めてタバコを吸った。
2014年9月4日木曜日
先日見た夢
家に女と、その友達の男といると、
検診係のような風貌の男がインターホンをならし、伝票届いてませんか、と尋ねてくる。
答えあぐねていると、まあ仕方ないですね、と言い、
同じような風貌の人間約15人で庭を解体し始める。
ああ、これはやばいやつだ、
と、判断し、混乱しながら、
二階の電話から110を押し、警察に連絡するも、
担当部署が違う、
と、取り合ってもらえない。
下に降りると庭は木も草もすべて美しく刈りとられ、
家の中の一階も床が剥がされていて、
女の友達の男は死んでいた。
ああ、これは解体して金目のものを奪い、かつ後に法外請求をするという二重強奪で、
余計な目撃者は殺すやつだ、
余計な目撃者は殺すやつだ、
と判断し、血の気が引き、
女と逃げる。
カジノの10階から降りて行くためには、各階の規定メダル数を稼がなければならない。
幼児のプロポーカー(人魚の足の衣裳をはいている)が渋い顔をしてカードをさばいている。
ギャンブルをしたことはなく、メダルを稼ぐ自信はない、
追手はじりじりと近寄ってくる。
映画俳優と女優が腕を組んで登場し、
群衆が大きく動いている隙に、女と非常階段に忍び込む。
頭の中は真っ白のまま、
二人で全力で螺旋階段を駆け下りていくが、
追手は後ろから、また前からも待ち構えているので、
手すりに乗って、追手をすり抜けながら滑り降りる。
風圧を激しく浴びながら、
突き破る針のように落ちていく、
突き破る針のように落ちていく、
助かる見込みと女の手は、首の皮一枚繋がっている。
円柱状の空間の中心線を軸として、
外壁という外壁は次第に激しく巻き上がっていく。
女は傷を負っていて、手すりに上手く乗れず、手が離れる。
助かる見込みと女の手は、遙か後方でもう見えない。
(女はしかし生きている、理由はわからない。)
体は、遙か先のなにかから吸い寄せられるままに、
速度は増す一方、そのまま手すりを逆走し上方へ、
そして空へ投げ出され、
手すりも軸も外壁も追手もすでになく、
大きく緩やかな放物線となる。
大きく緩やかな放物線となる。
一面の空。速度は意志を既に超えている。
そのまま、熱狂につつまれたスタジアム、
サッカーが行われているそのときその頭上を、
サッカーが行われているそのときその頭上を、
鮮明な解像度で弧が描かれていく。
躍動感をもって駆け抜ける20数名の選手、歓声をあげる両国のサポーター、
色とりどりの旗と人と、
その、なにの視界にも入る前に、
その、なにの視界にも入る前に、
向こう側のゴールバー左上あたりをかすめ客席に突っ込む、
停止、視界が消える。
黒。
おそらく全て速度の前に置き去りにされたので、
もはや生死の基準もわからない。
2014年6月20日金曜日
2014年6月15日日曜日
夢日記
ブレーキがきかなくなり、大通りから一本路地に入ったあたりで
なんとか停めることが出来たものの、帰れなくなる。
運よく通りがかったお巡りさんによるとたまにあることらしい。
「ああこれはエンジンがどうのこうの、」
と僕の知らない単語を煩くない程度に並べた上で、
ちょっと時間かかるけど直してあげると言ってもらう。
お巡りさんに直してもらっている間、
ちょうど居合わせた風俗嬢のはからいで、
その人がオーナーの風俗嬢のシェアハウスに居候させてもらうかわりに、
家のお手伝いをすることになる。
少し進んで路地を左に曲がったところにある、
シェアハウスの嬢たち。
みなの僕への扱いは手荒いが、挨拶はしてくれる。
嬢たちのOFFの顔。かわいい。
慣れない洗濯。
日々。
オーナー嬢と口論になり、
みんなが見てる前でマウントの取り合いになる。
身長差もあるし力では負けないけれど、
この人には適わないなと思いながら抑え抑えられしていたら、
力を抜いたわけではないが、
騎乗位のような体制でおさえつけられたので、
どうやら負けてしまった。
まわりの嬢たちにはやしたてられる。
日々。
お巡りさんは、僕がいいなと思うお姉さんに予約をいれていて、
うんそうだよね、と思う。
2時過ぎ、「じゃあね~いってくる~」と、いつものあっけらかんとした言葉を残して、
お姉さんはお巡りさんと2人で、隣の平屋へ入っていった。
雨はもう降っていなくて、
どちらかというと蒸し暑いが不快な感じはしない。
併設のバーのお手伝いもさせてもらっていたら、
なにかの撮影がたまたま入る。
カメラを見ると、僕はお客さんの背中越しに何かの話でクックッと笑っていて、
そこで一緒になったスタッフの二人のイケメンのうち、
隣の金髪の人と、あとでいい感じになる。
なんかの都合で、帰ることになる。
嬢たちに、玄関口で男物の下着を、餞別だよ、とちゃかした感じで渡される。
どう返したらいいのか言葉が出てこなくて、
「間に合ってます」とよくわからない返事をしたのち、
結局、4枚全部受け取ることにした。
オーナー嬢にお礼を言われ、
キスをしたくなったのでキスをしたら、
え、なんで?という顔をされた。
僕もあれ?という顔をした。
先輩が京王線で帰ると言い、
ひとまず途中の新宿まで一緒に帰ることにしたけれど、
車を直してくれていたお巡りさんはお姉さんとの時間になってしまっているので、
結局まだ車は治っていないことに踏切のあたりで気づく。
そういえば21時に荷物の受け取りをするよう言われていたっけ、
どのみちまたあとで戻らないとな、と頭の中で時間の算段をつける。
夕日はさっき沈んでしまい、
白線の上をなぞって歩くもののほろ酔いのために上手く歩けない。
2014年6月1日日曜日
断定
もしも、もしもボックスがあったとしたら、少し考えたのち、世界平和とか言うのだろうと想像する。
多分それは少しの好奇心と保身なんじゃないかって疑ってしまうので、結局受話器を置いてボックスの影によりかかる。
もう人と喋りたくないって思うのは、きっと自分の話をしてしまって、相手の話を聞かない自分に自責を、そんな堰を切る瞬間に嫌気がさしているから、
どれもこれも、自分の話
サンダルが好きで、スウェットを両足とも少しまくし上げて歩く。歩きやすくて足の甲の涼しさに自由を感じて、退屈そうな交番のお兄さんにお疲れ様ですと挨拶をする、
「おう、」と応えなのかわからない応えをもらって満足する。
メガネをかけずに空を見ると、ぼんやり星が見える。
多分ぼんやりとしているのが重要なのだと特に理由にならない理由をつけて、言葉にならない言葉とともに一息つく。
2014年4月29日火曜日
人権と芸術とかいうたいそうなテーマを考えるタイミングは多分今しかないということで。
国際人権団体で経理をさせてもらって1年と少し。
覆いかぶさる価値観に飲み込まれ流されていて、
芸術を支援したいわ~と言いつつ、
「人権?全然違うねえ、」
という感想をことあるごとに頂戴し、
「うん、違うといえば違うし、違わないといえば違わないし。。」
てな感じにしか答えられなかったのももどかしく、
(人権?芸術?)
などど、とても大きすぎて手に負えない問いがなんとなく脳内机の一角に常に鎮座しておりました。
でーん、と。
明日で退職、
(今しかこんな手に負えないテーマに向き合うタイミングはないぞ!)
(今しかこんな手に負えないテーマに向き合うタイミングはないぞ!)
ということで無理くり答えを探してみたところ
それぞれどうやら、
お金になりにくい!
ということと、
あと、つまるところ、人、か。
というもっともな答えがでてきました。
以下、もちゃもちゃした五藤の思考の列挙になります。
以下、もちゃもちゃした五藤の思考の列挙になります。
(芸術も人権も専門的な知識は持ち合わせていない適当な認識の上で書いていることを前提に。)
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芸術も、
人権も、
それぞれ、イメージがお金と結びつかない。
人の尊厳に内包される唯一性と、多様性。
そんな性質を持つ代替不可な価値を扱うもの。
対してお金は、代替価値。
それ以上でも以下でもない。
代替不可だからお金にならない。
お金にするためには、換金できる別の価値を見出さないといけない。
これがまた難しい。
人権も芸術も、日々の営みに親しいです。
例えば自分にとって大事なことを好きなように表現・行動すること然り、
好きな人に好きと伝えること然り。
みなそれぞれ違うだろうけれど、
そういう気持ちが重なり合って、日々が動いているように感じます。
多様な価値の流れの輪が幾重にも重なっているとでもいうのか。
そんな代替不可な価値を、
表現し伝える技術が芸術で、
守る道具が人権なのかな。
僕はあまり強い人間ではないなと最近よく思います。
一人では何を決めることも動かすこともできず、
一人で心を痛めてくよくよしている。
なのに、好きなことを考え、表現し、好きな人と話す、
そう自然に暮らせているのは、
守ってくれている人たちと環境の存在のおかげです。
僕が心底憧れ、尊敬する人々は、
自分の力で表現する人、
そして他人のために尽力する人。
これらは、僕がなりたいと思いつつなれない人なのですが、
これって芸術家、人権活動家とも置き換えられるのかもしれない。
表現は、人の心に価値をそのまま伝えることができる。
届ける力。
可視化。
大きくひらべったく広がっている価値観の裏には、
表現されていない(させてもらえない)価値観がある。
表現者は、本質的には、
価値のベクトルの向きを自ら決め、生み出していく人。
表現者がいなかったら、
画一的で、閉鎖的で、問いのたてられない予定調和の世界になってしまう。
その技術としての芸術。
人権を守るとは。
単一的で表面的な価値観の裏にあるものを見抜くこと。
そのはらわたを割いて、飲み込まれた多様な価値観を可視化すること。
そしてその価値観を守る道具を与えていくこと。
「基本的人権の尊重」という言葉を小学生のときに学んだけれど、
これらは自明「であるべき」ものでこそあれ、
自ら掴み取らなければいけない。
今自明なものとして認識されている陰で、
誰かしらの尽力によって下支えされている。
裏を返せば、掴み取られていないところにおいては、
まったくそれは自明なものではない、ということ。
人権問題に取り組む人がいなかったら、
強者の価値観が、弱者の価値観をひねり潰すように覆い尽くす世界になってしまう。
「芸術家がいなくても世の中回るよね」
「人権ってそもそも当たり前のようにあるものだよね」
と考えてしまってもそれはそれで日々はおくられるのだろうけれど。
覆いかぶさる価値観に飲み込まれ流されていて、
異常も異常と感じられない異常な世の中。
そういう世の中では、人間もくそもないんじゃないかと。
そういう世の中では、人間もくそもないんじゃないかと。
そうなってしまうことに危惧していたいし、
今だってかなり危ういのだと、感じていたいわけです。
多様な価値基準を多様に認めていくということは、
営利・非営利それぞれによる価値の流れの重なりを捉えることが不可欠。
営利はお金を生むために活動をする。
非営利は活動をするためにお金を使う。
これは価値の循環の歯車が逆に回っているようなもので、
何も考えず同時に回そうとすると、自身の中で相殺されて動かないか、
自分を軸にしてくるくるコマのように回ってしまう。
でもうまく支点をおいてまわすと、
台風のように周りをぐわーっと巻き込む、
強いうねりを作り出すことができるのだと、
折々で感じます。
人権なり、芸術なり、
非営利色の強い価値の流れも、
非営利色の強い価値の流れも、
営利とうまく混ぜ込んでつくりだすことができれば、
唯一自明な価値基準であるお金の流れを基盤として、
より広く世の中に流し込んでいくことができるような、そんなイメージを最近抱いています。
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深い思いやりに包まれつつ、見事な幸運に出くわしつつで、
どうやら芸術文化方面に、お金周りの仕事で関われるようになってきました。
まだまだ税理士資格取得というスタートラインすらはるかに遠く、
インスタントなプチ絶望に浮気をしがちですが、
インスタントなプチ絶望に浮気をしがちですが、
やってみたいこともいろいろ出てきましたので、
そんなものは軽やかにポイポイしていかなければならないぞと。
ポポイのポイです!
(軽やかに一歩一歩ということで、なんとなくこの曲が頭を流れています)
2014年4月17日木曜日
見た夢の話
何かの夢を見ていた。
覚めると、6人で同じ大きなベッドの上で休んでいる。
男3人、女3人。
向かいの真ん中に気になる子がいる。
多分また寝てしまって、
夢の中では昔好きだった子がいる。
なにかを二人で話している。
向かいの真ん中の子は隣の女の子とじゃれあっている。
僕は隣の男に抱きしめられている。
僕はあまり抵抗しない。
固い。もう少し動かしたい。
夢に落ちると、体が浮いてなんでもできる、
気分がいい。スローモーションとグラデーションの進行。
なんかしらの克服をして、自由に動けるよう。そんな心持。イメージ。
起きると、みな離れて、
腫れ物を触るような目で僕を見ている。
「うまくいかない、うまくいかない、」とうめいていたらしい。
(と誰かが教えてくれた。)
怖さ、軽蔑、不安、困惑。
なぜ、そんな目で見られたのかはわからない。
とにかく、そこで友達を5人なくした。
非常ベルが鳴る。
ビルから脱出する。
煙のような霧が舞う。
赤。黒。
小さいころの記憶。
古民家に忘れ物をとりに行く。友達が2人。
夏のようだが、涼しい。(無風。)
僕が先にみつけ、2人は奥の部屋に探しに行く。
渡り廊下の右側の部屋のテレビがついている。
ハトの映像が流れている。
野原。
飼い主のおじさんがヒナと楽しく遊んでいる。
勢いあまってヒナの足を折ってしまう。
飼い主は必死に気遣うが、結局折れたまま。
ヒナは飛ぼうとするが、ビッコの足のせいで飛べない。
親からも見離される。
そんな映像が定点記録のコマ送り映像でずっと流れ続ける。
ヒナは羽をはばたかせ続ける。
大きくなり、体が白くなり、
まだ飛べない、飛べないけど、
羽を動かし続け、あがき続けている。
羽の色がつき、そして茶色になり、
(よくわからないけど恐らく年老いていってるんだろうと感じる)
あーこのハトはもう飛べずに死ぬのかな、
となんとなく考える。
飼い主は、なんてくだらない遊びで、このハトの一生を台無しにしてしまったのだろう、
と非難しようとして、(と同時に)
この人は、ずっと撮り続ける責務を感じていたのかな、とも考える。
最後、なぜか、ハトは飛ぶ。
飛べ、飛べ、と映像をみながら、
ずっと祈っていたので、心のつかえがとれもしたが、
このハトは飛んで、
電線の向こう側へ行ってもう見えなくなってしまったけど、
どこへ行くのかな、行くべきだったのかな、
なんていう不安に近いものを抱く。
漠然と何かの理由を探しに本屋へ入る。
アナウンスで閉店時間のお知らせが流れている。
構わず進むと、店長らしき人が、現行犯だよといわんばかりの、
しめしめという顔で、「ちょっと奥まで来てもらおうか」
と言ってくる。
そのセリフ言いたいだけだろ、
今それどころじゃないのにめんどくさいな、
と思いながら、でも閉店時間を無視したのは悪気があったし、後ろめたさも感じていると、
「どうしても今日中に買いたいのですか」
と聞かれ、
「はい、そうなんです、」
と答えつつ必死に今必要な本を考える。
なんとなく本棚を見上げながら本を探していると、
席に座った友人に、「ごまくん、」と声をかけられる。
隣の人をさし、
「この人がね、寄附をどうやったら集められるか知りたいんだって」
といわれる。
それは難しいなあと思ったから、
「それはとても難しいです。」
と答えた。
2014年3月17日月曜日
ポケットに名言をって名言。
「大丈夫、大成仏」
たった一言なんだけど、
別に持ってて重くないんだけど、
おいしいものはずっと噛んでられる。
しまって、また引っ張り出して、噛むとなんか違う味になってる。
ある意味どこでもドアみたいなもんでもあって、
ここにあるんだけど、開くと違うところにいつでも行けるし、
帰ってもこれる。
やや、「ポケットに名言を」って名言すね。いやはや。
日ごろモノを売り買いしているように、
という言葉の響きにじわじわきてる。
この前飲みながらの会話の枝葉で出てきた言葉で、
そのときは聞いて笑ってすぐ次の話題に移ったのだけど、
どうやら耳にぴたっとはまってしまっていて、
いまさら意味なく思い出し笑いをしちゃってるのです。
そんなわけで、言葉っておもしろいなーと改めて思って、
今日本屋に寄ったついでに寺山修司の「ポケットに名言を」を買ってみた。
口下手な僕としては「気の利いた言葉」に憧れのようなものもあるんだけど、
確かに気の合う言葉と出会うとそれだけで世界が広がったとか、
言霊なんてよく言うように、
強く繰り返し言ったり思ったりしている言葉にいつのまにか支えられてるとか、
思い当たる節はあるわけで。
強く繰り返し言ったり思ったりしている言葉にいつのまにか支えられてるとか、
思い当たる節はあるわけで。
最初のページの一節。
「そのかわり私は、詩人になった。言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は、凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。」
ここまでしてもらえると大変わかりやすくてよいのだけど、
人との出会いと同じで、
大抵の言葉は受け取る気がなければそもそも出会ったことにも気づかないし、
いろいろと素通りしてるんだろうなーって。
たった一言なんだけど、
別に持ってて重くないんだけど、
おいしいものはずっと噛んでられる。
しまって、また引っ張り出して、噛むとなんか違う味になってる。
ある意味どこでもドアみたいなもんでもあって、
ここにあるんだけど、開くと違うところにいつでも行けるし、
帰ってもこれる。
やや、「ポケットに名言を」って名言すね。いやはや。
日ごろモノを売り買いしているように、
言葉も自然に出したり入れたりしているってこと、
あー、多分毎日おんなじ様な言葉だけしか受け取らず、
おんなじような言葉を吐き散らしてるんだろうなあ~。
ていのいいキャッチコピーとか文章とかが溢れすぎててワードデブになってる感、
ありますけど、
お米をよく噛んで味わうように言葉を受け取って、
ふっくら炊きたてのご飯を丁寧によそうように言葉を発したいものです。
たまには。
お米、おいしいよね。
あと、
「ゲロバナナ」って看板を昨日ふと見つけてしまって、
とんでもないジャンクフードを見つけてしまったな、
これは当分胃もたれを起こすに違いない。
「ゲロバナナ」って看板を昨日ふと見つけてしまって、
とんでもないジャンクフードを見つけてしまったな、
これは当分胃もたれを起こすに違いない。
2014年2月15日土曜日
ふるまい簿記

先日、としまアートステーション構想のプロジェクト、
としまのふるまい『ファウンデーション』の中で、
ふるまい簿記ってワークをさせてもらいました。
日常のふるまい、例えば挨拶するとか遊ぶとか、
そういう感情や行動を「気持ちの取引」にみたてて簿記にしてみよー。
っていうの。
一応、単式から複式までつくって、最終的に自身の気持ちの総体を貸借対照表で表現できるようにしました。
つかったシート6枚、写真とって別のブログのせてるので興味ある奇特な人、見てくれたら嬉しいわーい
http://geijutsukaikei.tumblr.com/
参加者の人たちには、一日の気持ちの出し入れを収支表に落とし込んでもらったんだけど、
みんないろいろ思い思いに書いてくれて、
見たことないもので遊ぶのに慣れてる人なのかな、
本当に素敵だな、
この楽しむ力は結構大事なことだなと。
ふるまいの定量化は無理なので、
数字でなく言葉を積み上げて、
気持ちとふるまいの関係性を簿記的に捉えられないかなあと考えていたけど、
そもそも同じふるまいでも捉え方が違う(勘定科目が違う)とか、
例えば怒りは収入と支出とどっちかとか、
書き出すと減少が目立つけど不思議と気持ちは安定しているとか、
気持ちの隙間も大事なんだとか、
いや、ふるまいの尺度は前進後退なんじゃないかとか、
加速度的なものじゃないかとか、
他の発表者の言ってたニートとかそれによるグルーヴ感とかサイクルとか、余白とか、
で、それらの集積でなんかいろいろ満たされて嬉しい、
みんなファンタジーに付き合ってくれて嬉しい。
「世の中お金じゃないよ、目に見えないけどいいこといっぱいあるよ」
と思っていた大学生のころと比べて、多少考えが成長したかなとは思っていて、
「目に見えるものと見えないものがあって両方大事で、目に見えない(見えちゃいけない)大事なものを見えるようにすることなく意識を向けやすくするにはどうすれば」
みたいな感じに今なっていて、
でもそれ、簿記とか会計を勉強して仕事をさせてもらってるおかげでわかってきたことっていうのが、
また面白い。
アーティストじゃないのにプロジェクトに参加させてくれたとしまアートステーション構想の人たちとか、
旨いエサのついた釣り針を絶妙にぶらさげて吊り上げてくれた絶妙な岸井さんとか、
ありがとうございます、感謝です。簿記的に言うと、寄付収入を結構な額でいただいた感じです。
いよいよ、勉強も仕事も頑張らんとなって。勉強は簿記的には気持ちの支出による機械装置購入、仕事は事業による収益獲得、ってそれはまんまか。
今回の僕のこれ自体は、アートではないけど、会計・簿記でもなくて、
言ってみれば「アートを楽しむためのおもちゃ」づくりみたいに思ってて、
つまりよき鑑賞者、よき理解者に、なっていきたい。
こういうの大事だと思うし。
いろんな世の中の価値、お金とか作品とか行為とか、が、どんどん相対化されていってる気がします。
今回のはあくまでおもちゃであって、
会計と言ってはいけない理由もあって。
先日聞いた話、
「creative accounting」って、粉飾って意味になるんだって!
そりゃあ、やばいね。
2014年2月2日日曜日
都知事選
大勢の人が同じ場所で同じ方向を向いて高揚している瞬間、
選んで、ほらやっぱりだめでしたって言うんじゃなくて、
吐き気をもよおす。
最近、電車でさえ酔うことがたまにあるのだけど、
三半規管が不調なのかもしれない。
社会に資する、というけど、
一人にならない限り社会はそこにあるわけで、
望むによいもわるいもなにも。
(または、誰にとっても、良いにこしたことはないでしょう。)
何のために決めるの、
何で決めなきゃならないの。
でも決めなきゃならない。
はて、何を決めるんだっけ。
誰がいいとか悪いとか、
争点はなんだとか、
誰かを推すよりも誰かを否定するとか、
はたまた誰がなっても変わらんだろうとか、
みんなビミョーとか、
誰かのせいで台無しだとか、
こういう声は確かに周りからよく聞くし、
なにより僕自身の中にもふつふつよく浮かんでくる。
でも、
あらを探したらきりがないし、
僕らは選ぶ権利はあるけれども、
決して彼らより立場が上なわけではないし、
彼らが舞台上にいて僕らは観客な構図に見えるけど、(そしてすきあらば座布団を投げるわけだけど、)
僕ら客席じゃない。
舞台上、いるよね。
舞台上でののしり合うも、協力し合うも、
どちらだって、劇として成り立つけども、
面白い劇にしたいなら、
舞台上にいて、
演じてるってこと、
見られてるってこと、
はて、どうしたいのか、結末を、endingを。
同じ台本、読んでいかないと。
夢見るべき未来に絶望して、
直視すべき今から目を背けて、
学ぶべき過去に翻弄されてさ、
何に怖がってるんだろう、一体全体。
小学校のころ、プールの時間、みんなで同じ方向にまわって、
流れるプールなるものをよくつくって遊んでいたのを思い出す。
その流れの向きに良いも悪いもなくて、
ただ逆らうことはできなくて。
だから、ぷかぷか浮いて、へらへらして、
流れがおさまるのを待ってた。
今、自分たちが、どの方向に流れをつくろうとしているのか、
知らないうちにみんなでつくろうとしている劇が、どういう方向に向かっているのか。
自分がいると予想される世界、その重心を探して自分がどこにいるか(それはたいてい重心からは遠くに映る)を推し量ることと、
自分を重心とする世界の輪郭を推し量ってなぞることとは、
おそらく同義で、
例えばその輪郭と比するのは、
国でも、
東京でも、
職場だったらどうか、
仲間は、
TVの向こうは、
SNSで感じる世界、
通勤電車、
飲み屋、
サークル、
通りがかりに入った喫茶店、
家族、
そういった、目に見える輪郭と比してどうか、
どの程度ズレているのか、
どこがはみだしていて、どこがへっこんでいるのか、
自分は、そもそも、
世界の輪郭を、社会の輪郭を、
描けているのか。
せりふも名前もなく歓声をあげるだけの群集Aにはならないように。
空気の台本があるとしたら、必死に読まなきゃ。
空気を読ませたら世界一でしょ、日本人。
翻弄されて、目を背けて、絶望してるうちは、
誰を選んだって、それは何も変わらないし、
だから、
すごい怖いけど、
決めるってことを決めないとなって。
選んで、誰がなっても、
そもそも東京を考えていくのは誰、
ってことだよね。
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