吐き気をもよおす。
最近、電車でさえ酔うことがたまにあるのだけど、
三半規管が不調なのかもしれない。
社会に資する、というけど、
一人にならない限り社会はそこにあるわけで、
望むによいもわるいもなにも。
(または、誰にとっても、良いにこしたことはないでしょう。)
何のために決めるの、
何で決めなきゃならないの。
でも決めなきゃならない。
はて、何を決めるんだっけ。
誰がいいとか悪いとか、
争点はなんだとか、
誰かを推すよりも誰かを否定するとか、
はたまた誰がなっても変わらんだろうとか、
みんなビミョーとか、
誰かのせいで台無しだとか、
こういう声は確かに周りからよく聞くし、
なにより僕自身の中にもふつふつよく浮かんでくる。
でも、
あらを探したらきりがないし、
僕らは選ぶ権利はあるけれども、
決して彼らより立場が上なわけではないし、
彼らが舞台上にいて僕らは観客な構図に見えるけど、(そしてすきあらば座布団を投げるわけだけど、)
僕ら客席じゃない。
舞台上、いるよね。
舞台上でののしり合うも、協力し合うも、
どちらだって、劇として成り立つけども、
面白い劇にしたいなら、
舞台上にいて、
演じてるってこと、
見られてるってこと、
はて、どうしたいのか、結末を、endingを。
同じ台本、読んでいかないと。
夢見るべき未来に絶望して、
直視すべき今から目を背けて、
学ぶべき過去に翻弄されてさ、
何に怖がってるんだろう、一体全体。
小学校のころ、プールの時間、みんなで同じ方向にまわって、
流れるプールなるものをよくつくって遊んでいたのを思い出す。
その流れの向きに良いも悪いもなくて、
ただ逆らうことはできなくて。
だから、ぷかぷか浮いて、へらへらして、
流れがおさまるのを待ってた。
今、自分たちが、どの方向に流れをつくろうとしているのか、
知らないうちにみんなでつくろうとしている劇が、どういう方向に向かっているのか。
自分がいると予想される世界、その重心を探して自分がどこにいるか(それはたいてい重心からは遠くに映る)を推し量ることと、
自分を重心とする世界の輪郭を推し量ってなぞることとは、
おそらく同義で、
例えばその輪郭と比するのは、
国でも、
東京でも、
職場だったらどうか、
仲間は、
TVの向こうは、
SNSで感じる世界、
通勤電車、
飲み屋、
サークル、
通りがかりに入った喫茶店、
家族、
そういった、目に見える輪郭と比してどうか、
どの程度ズレているのか、
どこがはみだしていて、どこがへっこんでいるのか、
自分は、そもそも、
世界の輪郭を、社会の輪郭を、
描けているのか。
せりふも名前もなく歓声をあげるだけの群集Aにはならないように。
空気の台本があるとしたら、必死に読まなきゃ。
空気を読ませたら世界一でしょ、日本人。
翻弄されて、目を背けて、絶望してるうちは、
誰を選んだって、それは何も変わらないし、
だから、
すごい怖いけど、
決めるってことを決めないとなって。
選んで、誰がなっても、
そもそも東京を考えていくのは誰、
ってことだよね。
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