2014年2月2日日曜日

都知事選

大勢の人が同じ場所で同じ方向を向いて高揚している瞬間、
吐き気をもよおす。

最近、電車でさえ酔うことがたまにあるのだけど、
三半規管が不調なのかもしれない。

社会に資する、というけど、
一人にならない限り社会はそこにあるわけで、
望むによいもわるいもなにも。
(または、誰にとっても、良いにこしたことはないでしょう。)

何のために決めるの、
何で決めなきゃならないの。

でも決めなきゃならない。

はて、何を決めるんだっけ。


誰がいいとか悪いとか、
争点はなんだとか、
誰かを推すよりも誰かを否定するとか、
はたまた誰がなっても変わらんだろうとか、
みんなビミョーとか、
誰かのせいで台無しだとか、

こういう声は確かに周りからよく聞くし、
なにより僕自身の中にもふつふつよく浮かんでくる。

でも、
あらを探したらきりがないし、
僕らは選ぶ権利はあるけれども、
決して彼らより立場が上なわけではないし、
彼らが舞台上にいて僕らは観客な構図に見えるけど、(そしてすきあらば座布団を投げるわけだけど、)
僕ら客席じゃない。
舞台上、いるよね。

舞台上でののしり合うも、協力し合うも、
どちらだって、劇として成り立つけども、
面白い劇にしたいなら、
舞台上にいて、
演じてるってこと、
見られてるってこと、

はて、どうしたいのか、結末を、endingを。

同じ台本、読んでいかないと。



夢見るべき未来に絶望して、
直視すべき今から目を背けて、
学ぶべき過去に翻弄されてさ、

何に怖がってるんだろう、一体全体。



小学校のころ、プールの時間、みんなで同じ方向にまわって、
流れるプールなるものをよくつくって遊んでいたのを思い出す。

その流れの向きに良いも悪いもなくて、
ただ逆らうことはできなくて。
だから、ぷかぷか浮いて、へらへらして、
流れがおさまるのを待ってた。


今、自分たちが、どの方向に流れをつくろうとしているのか、
知らないうちにみんなでつくろうとしている劇が、どういう方向に向かっているのか。


自分がいると予想される世界、その重心を探して自分がどこにいるか(それはたいてい重心からは遠くに映る)を推し量ることと、
自分を重心とする世界の輪郭を推し量ってなぞることとは、
おそらく同義で、

例えばその輪郭と比するのは、
国でも、
東京でも、
職場だったらどうか、
仲間は、
TVの向こうは、
SNSで感じる世界、
通勤電車、
飲み屋、
サークル、
通りがかりに入った喫茶店、
家族、
そういった、目に見える輪郭と比してどうか、
どの程度ズレているのか、
どこがはみだしていて、どこがへっこんでいるのか、

自分は、そもそも、
世界の輪郭を、社会の輪郭を、
描けているのか。


せりふも名前もなく歓声をあげるだけの群集Aにはならないように。
空気の台本があるとしたら、必死に読まなきゃ。
空気を読ませたら世界一でしょ、日本人。

翻弄されて、目を背けて、絶望してるうちは、
誰を選んだって、それは何も変わらないし、
だから、
すごい怖いけど、
決めるってことを決めないとなって。

選んで、ほらやっぱりだめでしたって言うんじゃなくて、
選んで、誰がなっても、
そもそも東京を考えていくのは誰、
ってことだよね。

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