2013年2月20日水曜日

良いようで気持ち悪い

「なんだかんだで小説とかエッセイとかアートとかに触れてないと感性にぶってダメだと思うことがありまして」
「うんうん、そうそう。でも、忙しくてなかなかね。あと、しなきゃと思ってするものでもない」
「…たしかにそうですね」

新しい職場の会議後の晩飯を先輩に奢ってもらいながら、npoとartについてちょっと話して。


去年の今頃、artistとnpoを支援したいととりあえず言い始めてみたのは、
両者が力を合わせたらすげー楽しくなるんじゃないかと思ったからで、
その根拠も、描かれる未来も、
なんとなくイメージ(だけ)があったからなんけど。

つっても当時は、npoもartも両方に対してまったくの無知で、
よくわからんがとりま友達つくろ〜みたいな感じで一年たって、
去年よりは、こんな感じかなあというの肌感覚が少しはついた。

クラウドファンディングの例でいえばやっぱり両者が同じ原理で動いてる部分があるのは確か。
両者とも社会から必要とされているのも確か。
音楽なり絵なりなんなりを活用したNPOなり社会起業家が、
人々の心やらなんやらを豊かにしている例も掻い摘んでいくつかチラ見できた。

うん、多分間違ってない。

じゃあ俺は、そのまま知識とか経験とか積んで、友達増やして、
経理税務の力つけつつ機会伺ってれば勝手に社会がフィールドつくってくれるかっていうと、


今はそのイメージがうまくもててない。


npoの人たちと、
artistの人たちとを、
すげーざっくり捉えた時に、
性質の違いというか相性の気持ち悪さを感じてる。


npoの人たちには、明確なミッションがあって、
それに向かって(誰に何と言われようと)邁進する。
それが確固たる正義で、そのためにみんなの共感を求める。
あまりに邁進しすぎたり、問題が大きすぎたり、遠すぎると、共感が得にくい。
で、とにかくミッションを成し遂げたいから、
必死に「お願いします!わかってください!」になって、
余計、求められる側と距離が生まれがち。
「いかに問題を身近に感じてもらえるか」ということと常に戦い続けて行く中で、
心との対話を促せるartは潤滑油として非常に強い武器になるはず、
というところまではいいんけど、その先があって。


文学とかartは、触れる人自身の、心の深化を促したり、
自身の内省を促すことができるものだと思ってて、
だからこそ、その作り手は人一倍自分自身の感覚に敏感なのかなあと感じてる。
「いいものはいい」「悪いものは悪い」
と判断する上での尺度の量・密度・深度が人一倍。
人に「いい悪い」を押し付けられると拒否反応というか、異物感、気持ち悪さを感じる。

繰り返すけど、npoはミッションありきだから、
押し付けるつもりはなくても結果としておしつける形になってしまうケースが多い。

チャリティーライブとかあるじゃないですか。でもあれってすげー難しくて、
ミッションを上から被せられると、下手するとartの深みがペラペラになっちゃう。
わかりやすすぎる歌詞の曲が得てしてペラペラになりがちなように。

感覚の固定性・明示性が必要とされるnpoと、
感覚の流動性・色彩性?重層性?(そんな言葉あるかな?w)が求められるartistでは、
共通理解がかなりのレベルでないと、不毛な摩擦は避けられないのかもなあ。。。

であれば、その両者を結ぶ人が絶対必要で、
俺そうなりたい!とか思うのね、
だって結局どっちも、すげー乱暴にいえばlove&peace言ってるし、
根本的には相性いいはずなんだもん。

ぶっちゃけ適当に言ってますが。
どうすりゃいいのか、だめだ、今はまだよくわからん。

多分、これにプラスして、
マジョリティは「マイノリティでない」ということしか意味してない
みたいな論点も深く関わらせて、
答えだしてくんだろーなとか思ってるけど。
自信はあんまない。

まあ僕自身としては良いか悪いか、
「んなこという前に会計能力つけろよ」
という段階なので、まあそっち頑張りますけど。

報告ですが、
今月から、国際人権問題を扱うNGOの経理をさせてもらえることになりました。

人権ってなんでしょね。

広い世界には口にするのも憚られるような問題が至る所で起こっていて、
それに尽力している方々が多くいらっっしゃることがわかりました。
いろんな意味で圧倒されます。

あと、「人として」というフレーズの暴力性はハンパないということも、
最近ぼーっと考えたりもしています。


勤務地は秋葉原です。
ここまで読んでいただいたあなたさま、
感謝の気持ちを寄せるとともに、
今度一緒にメイド喫茶いきません?

0 件のコメント:

コメントを投稿