2013年10月31日木曜日

芸術会計

「芸術と会計って結びついて然るべき というか、であってほしい」
といたって個人的な動機により、そのつながりをちょっと考えてみました。

「営利・非営利の価値の移動」、「社会の多重層性」、「閉→開」あたりがテーマです。
またちょっと長いですが。



まず、こんな感じに、お金とか、価値のやりとりの最小単位を考えてみました。
二人だったら、1.だよね。


*****

らっしゃいませー。
ください。はい、100円。
はい、パン。
はいどうも。

*****


これを2人から3人にするときにどうするか。

2.にいくんじゃなくて、3.に行ったら、
効率がよくないですか。

矢印の数が6本から3本に半分になってるけど、
ちゃんとみんなやりとりできてる。
ただのパズル遊びだけど、
想像するに、
どうでしょう。


*****

寒いね。ほら肉まん。やるよ。
まじで。やべえ。超すきなんだけど。

この前ありがと、ほら、あんまん買って来たよ、やるよ。
や、俺あんこ食えない。
まじで。どうしよう。俺もそんなに。あ、食べる?
まじ、私超あんこ好きよ。
あそう、じゃあやるよ。
まじ、やったあ、やっぱりこしあんよね。

あ、そういえば、この前こんなチケットもらったんけど、いる?はつねみくっていうの?最近はやってるらしいけどあんま興味なくて。
……!!!ファンタスティック!!!

*****


みたいな。3.ですね。
うまく補い合ってる。
あ、わらしべ長者てこれかね。


非営利の人は、大なり小なり右も左もいろんな形はあれど、
この循環をめざして「一方通行の矢印を出している人たち」だと思うんです。

みんなに矢印が行き届くことを目指すことは同じだけど、1.を用いて目指しているのが営利の人たち。

営利と非営利って、この1.と3.の違い。

ただ、1.(とその積み重ねの2.)に比べ、3.は不確定性がかなり強い。貸倒率半端ない。(貸し倒れもなにも、約束してないしね。)

もちろん世の中の価値のやりとりはこんな単純じゃなくて、1と3.とが多様に多層に重なり合っていて、たとえば僕も両方に何重に組み込まれていて、それで社会が動いてる。

企業にしろ、非営利団体にしろ、
この二つをどうバランスよく組み立てられているか。
これが組織の持続性の強さになっていくんだと思います。


とすると、
「売店」と「にくまんあんまんはつねみく」の違い、なんだろう。

おそらく、内部か、外部か、の違い。


仮に、
外部の人に、一方通行の矢印をだしたらどうなるか。

しらない人がお金をくれた。
やった!
でも、外部で関係ない人だから、別に返さなくていいって言ってるなら、返さない。
別に悪くない。

恩義とかそういう理念的なものを考えなければそうなるわね。

じゃ、
自然に価値がまわるのはどんなとき?

…、
まるっとひとくくりで自分だったらどうでしょう。
全部自分だったら、自分の中でバランスをとるのは当たり前。

自分=内部だったら、その中でだったら、複合的な価値循環が起こる。
身内感。

たとえば、これらの円の枠組みが国とかだと、でかすぎて、「俺は国だ!」なんて到底思えない。
内部感なし。
身内感、なし。
実感が湧かない。湧くわけがない。

でかすぎるから、その重心にわかりやすいBOSSがいる。BOSSが集めて、ばらまく。BOSSとのやりとり。図でいう4.がこれ。
つまり国。
そして東京都。杉並区。こういう入れ子構造。



BOSSはたとえば法律・制度・税でまとめようとする。
大事なものだけど、(よい悪いではなく)法律も制度も税も人を縛るもの。
いろんな人たちを平等に縛ろうとするから、ものすごい複雑になって得体の知れないものになっていく。
(弁護士とか税理士とかは、その複雑さを逆に武器にしている人たち。)

そこで、その円を小さくして、小さくして、みーんな身内だったら、そんときゃ「自然に」バランスがとれはじめるんじゃないかと。

都市と隔離された小さな農村では、わかりやすい決まりごと・ルールがあって、自然と農作物の交換が行われていて、お金なくても生きていけてるって話を前に東北のおっちゃんに聞いたけど、そんな感じ。


あのさあ、
これさあ、

この地域の文化がそのままBOSSになってる感じじゃないかなあ。


このBOSSのDは、村長さんなのか?
いやはや。どうやら違う。
この地域にはなんとなくの慣習がある。その慣習自体は見える。では慣習は誰が作ったのか。そいつは見えない。誰。見えないBOSS。でも、見える慣習からなんとなくの空気まであって、それで地域がなんとなくバランスがとれている。

でも、これでまわすのって、
つまりこのふわりとしたABCを囲む円を維持するのって、
閉鎖性がつきまとうんだと思います。

自由がない。BOSS・Dに常に従属してる感じ。
かつ、Dはふわふわどこにいるかわからない。
みんながみんな、AはBとCを、BはCとAを、CはAとBを、意識しているようで、
それはつまり見えないDをいつもいつも意識している。

このDは、ABCの重心。

(この閉鎖性を、むりくり国に広げると、日本の戦中みたいな空気になるのかと、憶測。)

いい悪いじゃなくて、世界が地球中に広がっちゃってる今、この閉鎖性とグローバルの関係性は大事な論点、って意味合いで。


この前、文化系の偉い人が、「ニューコンパクト」って言葉を使ってました。
この「ニュー」ってなんだろう。

たぶん、勝手な解釈だけど、
個々が、こういった循環体=文化を、くっくっと切り替えることで、いろんな循環体を行き来できるのが「ニュー」にあたることなのかなあと。



僕はA。
Fが近い。
でも切り替えると、Dも入る。
別の切り替えをすると、Bとの密な関係。
この辺は、一番最初の図の1.と3.を組み合わせてやりとりできる。助け合うし、縛りあってもいる。
Eとは、特に関わりが薄いので、基本は1.のやりとり。
ある程度の対等性をもって、きちんとやりとりをしている。

こうなってくると、自分をとりまく「社会」が、「日本」とか、「東京」とか、「職場」とか、そういう「入れ子」の枠だけで捉えきれられるわけもなく、この重層感を意識していく必要があると。家族も、彼女(ほしい)も、学友も、職場も、地域も、遊び友達も、街も、なんでもその特有の文化がある。で、それぞれの重心に、見えないBOSSがいる。

見えるBOSS(法律・制度)のほかに、見えないBOSS(文化)がいる。見えないほうは、
もれなく、いる。

(たぶん、見えないBOSS同士が、手を組んだり、にらみ合ったりしている。)

このダブルBOSSとの付き合い方で、個々人の生き方が決まってくるんじゃーねーのかと。

ただし、見えるほうはまだしも、見えないほうはどこにいるかもわからない。隣にいると思ったらいつのまにか30m先に行ってたりする。焦って追いかける。

こういった焦りから、みんなどんどん内にこもっていって、どんどんせまくなていく。オールドコンパクト(造語)。

だから、切り替える必要がある。
向き合う文化を適宜切り替える必要がある。


で。


切り替える「術」が、「芸術」だと思うんです。

文化を、「閉」→「開」に切り替える力。


芸術がどうのこうのはわからないけど、
「芸術にしかできない社会での役割」は、ここだと思う。

価値観の転換。
同じことを違う側面から照射する切れ味。

これをひとつすることで、個人が、またはその所属する集団が、全く違う価値を帯びる。

「共益」を「公益」に変える術。

今、かなり芸術を広い意味で使っているけど、
つまり誰しも芸術的な感覚をもって日常を過ごしているけど、
一般的に「芸術家」と言われている人たちは、
「価値観の新しい切替」という作業に真摯に、実直に取り組んで、純度を高めて出来上がった「作品」という形で表現・発表している、人たち。

あくまで僕の所感ですが。

日本ておそらく、「見えないBOSS」の数が圧倒的に多い。
もう全然「見えるBOSS」が追いつかない。
だからこそ多様で繊細な芸術が、むしろ社会に必要とされてきた歴史があるんだと思う。
日本史わかんねーけど。




……。。

はい、だいたい終わりです。

非営利の人が増えていたり、企業でもCSRが求められたり、企業の手法をもってもっと根本的に社会的役割を考えたり、社会起業家が注目されたり、寄附を根付かせなきゃ!と官民がんばっていたり、地域をもりあげよう!アートで町おこし!COOLJAPANだ!コラボだ!新しい生き方だ!協働だ!半農だ!エコだ!自然だ!フェスだ!ソーシャルだ!街コンだ!なんだ!かんだ!
という、
もろもろの世間での話題・動きはつまるところこんな感じか、ということを書いてみました。

というのも、最近立て続け、いろんな面白い方・本・出来事と、直接的・間接的に出会うことが連発していて混乱していたので、むりくりまとめてみました。つまり人聞きの知識の劣化版パッチワークに過ぎないけれど。見返して気づく論理矛盾もごめんなさい。

でも、「見えないBOSS(見えない主体)」はかなり重要な要素だと思っています。

「会計=経済社会を読み解く羅針盤」だと捉えると、
そしてその役割としてこういった構造で生きる羅針盤が求められているとすると、

芸術と会計って結びつけて然るべき。

はい、振り出しに戻る。
あれ、会計の話結局してない。。
(や、本当は簿記論つかって最初分析を試みてたんけど難しすぎてちょっと据え置いてしまいました。)
はい、会計的思考から出発してるということで。

や、誰か芸術会計、どこかに~いないかな~芸術会計やってる人。
ググってヒットしろよ芸術会計~。


はてさて。

2013年10月16日水曜日

非営利会計のジレンマ

 非営利会計を公会計と企業会計のブレンドと捉えて、非営利団体の経営の難しさを会計面から考えてみました。
(公会計も企業会計も憶測のもと雰囲気で捉えてるので、補足ご指摘等いただければありがたいです。)


まず、税金とか助成金って、基本もらいものなのできちんと使いきらないといけない。
助成事業に関して(非営利会計グラフの下側ね)、手書きで「基本的に赤字」って書いたのは、
大多数のプロジェクト支援型助成金は、余ることは想定されていない「赤字補填」っていう考え方があるから。

助成金はたいてい対象事業が終わった後に事業報告書の提出が求められて、
ちゃんと目的通りにつかわれたかチェックされ、厳しいところだと余ったお金は返還しないといけない。
そうでなくても、「余ったら繰り越していいよ」という空気はあまりない。
どんなにうまく計画通り効率よく進めても、お金が「増えることはない」。
正確には、余らせる予定で計画をたてる発想がない。

つまり、上段で溜め込んだ収益で各種費用をまかなった上で、bを補填しないといけない。
メイン事業が下段であることが多いので、下段の事業でそもそも黒字が計画すらできないというのはかなりしんどいです。

この辺が非営利団体の大きなジレンマ。


当たり前っちゃ当たり前だけど、この下段の事業にリソース(お金も労力も)がとられて、
収益事業にかけるリソースが慢性的に足りないってのもありますよね。
なんつーか100%収益事業をしている企業と同じ土俵にたてるわけもなく。

上段と下段のバランスで見ると、やっぱり基本収益事業ベースの企業の一部のCSR部、とかは財務バランスはいいなあと思いますよね。
(内情はいろいろあると聞きますが。)


じゃあどうしたらいいのか。

団体自身としての努力としては、
・財源の負債性(返還義務のある助成金など)のあるなしの切り分けを各事業ごとに明確にする(上段下段の切り分け)
・負債性がなくかつ安定した財源確保(会費・一般寄附・継続した収益事業など)
・助成金を含む事業の計画・活動進捗の把握を精確に(黒字が望めない以上、赤字をなるべく出さないように)
あとは、常勤スタッフの人件費にあてられる長期的な助成先を探すとか、
臨時スタッフ雇用と助成金の抱き合わせを適宜うまく使っていくとか。


下段の公益性の高い活動で収益性をも同時に生むような、いわゆる「ソーシャルビジネス」?と呼ばれるような事業計画ができればもうそれにこしたことはないけれど、
これってマーケティング能力をはじめとした総合的な経営能力がないとしんどいなーとか思うので、
全国の全非営利団体にこれを求めるのって酷だと思うんです。
いわゆる「NEW!ビジネスモデル」なるものをつくらないといけないし。

(ソーシャルビジネスできる人って「すばらしい理念をもった優秀な社長さん」ってことで、でもこういう人たちって別に今に始まったことじゃないですよね。)

それと、全非営利団体の活動ジャンルにソーシャルビジネスが適用できるかっていうと、そうではないのかな、と思います。
(ソーシャルビジネスのことよくわかってないですが。えらそうにすみません。誰か教えてください。)

なので全国の非営利団体がもっと活躍するには、やっぱり助成システムがもっと充実する必要があると思ってます。
それはいただいたお金をプロジェクトベースではなく人件費や管理費という運営全体に充当できて、余っても返す必要がない、そうすれば非営利事業で利益を出す計画が組めて、団体もお金稼ぎのセンス・能力・リソースがなくても成長のプランを描きやすくなる。
すばらしいね~と思うけど、そんな足長おじさんはどこにいるのかな?
足長おじさーん。

たぶん、国よりもひとつかふたつ下位のところに、多様な「再分配の主体」がもっといっぱい必要なのかなーと思っています。

プロジェクトごとににだしっぱなしもらいっぱなしって関係じゃなくて、
そこそこ長期的なつながりがあって、「おっす!」「ハイ!BOSS!」みたいな関係性というか。それが多様にあるというか。
そういう緩やかで立体的な関係性の中に多層に組み込まれていけば、人件費も助成金で安定してもらえるーみたいになるのかなと。
そんなにきちんとリサーチもせずこんなこと書いて恥ずかしくなってきたけど、、所感です。何か補足あればどなたか教えてください。


余談、
非営利団体に対する融資が昨今注目されていますが、
融資とさっきの非営利会計の構図って同じ絵でかけるんじゃないかと思いました。

これによると、負債性の部分を収益事業で取り戻しています。
a>bという同じ絵がかけます。

でも、二つの大きな違いは、
融資のほうはbを元手にaを伸ばす計画が(計画上では)いくらでも可能ということ。
と考えると、
結果として収益を得ることも目的とすることをいとわない助成金、というのもありですね。

融資と違って、お金で投資してお金で回収できないとすると、現状では金銭的には見返りは考えにくいので、どうしてもこのへんはお国やら自治体やらのお力をお借りするっぽいな、とか、だから行政はとりあえず再分配の主体づくりにせっせと励んでくれるといいのかもな、と、

とまあひとまずこの辺で。

2013年10月7日月曜日

会計、歯車

都って複式簿記になってまだ10年たってなかったんですね!
http://www.kaikeikanri.metro.tokyo.jp/kaikaku.htm

歯車の回る軸も向きも違うのに非営利団体「の全体」に経済社会での自立を求めるのは酷な話で、
再分配の主体は絶対必要だよなーという一方で、
政治性にナイーブなNGOにせよ個々人の価値観にナイーブな芸術団体にせよ、
お役所からの独立性って存在意義のレベルでかなり重要だと感じているわけです。

「完全自立のビジネスか、さもなくばお役所の税金か」っていう極端な収益構造しかないとやっぱしんどいなーというわけで、
税金、民間(でかい財団から個々人まで)からの寄付・補助・助成、そして自立的な収益事業のバランスをとるために、
そのお金の回る歯車をどれだけ多面的に立体的にくるくる噛み合わせられるか、
なのかなーって最近考えてたところに、

「東京都ですらH18年まで単式簿記だった」という事実をはじめてしって顎がはずれそうです。

それだけ、今まで国と企業のお金の回し方、
公会計と企業会計がかみ合ってないのにその間の非営利会計(公益法人会計とかNPO法人会計とか学校法人会計とか)は、
まあ、かみ合わないですよねーって話で顎がはずれつつも腑に落ちた感じ。

貨幣に換算されない社会的価値に世の中全体が向いてきてて、定量化・可視化の試行錯誤もデキル人たちが頑張ってたりもしててすごいなーかっこいいなーと思うんだけど、
そういう潮流を見ててなおさら、個人の自由を守るためにはお金のわかりやすさが必要ですね。と。
お金じゃないものでまわそうとすると、あいまいな人間関係のあいまいな阿吽のうんちゃらでそれは下手すると鬱屈して抑圧的で。

お金は手段としてはやっぱ最強っぽいなと。

お金をベースとするのは前提としつつ、
あいまいな社会的価値も実感しやすいように、
そしてそのもっと価値循環が見えやすいように、
その循環の渦が小さくまわる必要がある。
自立と再分配のバランスが実感できる社会。

その渦をいかにオープンに保って、いろんな渦がぶわーって混ざり合う感じにできるか。
でしょうか。
(なんか自転と公転、宇宙と惑星の太陽系みたいだなーと思ったのは余談。)
(それをクローズドでなくオープンにするカギは芸術なんじゃね?じゃね?)

公会計と非営利会計と企業会計、回る軸と向きの違いを組み立てるには複式簿記はやっぱり必要、
というか複式簿記ってすごいよね、きれいだよね、
って話にまとまります?
まとまりませんね。

あげぽよ~

アゲ・ポヨーン