2014年4月29日火曜日

人権と芸術とかいうたいそうなテーマを考えるタイミングは多分今しかないということで。

国際人権団体で経理をさせてもらって1年と少し。

芸術を支援したいわ~と言いつつ、
「人権?全然違うねえ、」
という感想をことあるごとに頂戴し、
「うん、違うといえば違うし、違わないといえば違わないし。。」
てな感じにしか答えられなかったのももどかしく、

(人権?芸術?)
などど、とても大きすぎて手に負えない問いがなんとなく脳内机の一角に常に鎮座しておりました。
でーん、と。

明日で退職、
(今しかこんな手に負えないテーマに向き合うタイミングはないぞ!)
ということで無理くり答えを探してみたところ
それぞれどうやら、

お金になりにくい!
ということと、
あと、つまるところ、人、か。

というもっともな答えがでてきました。
以下、もちゃもちゃした五藤の思考の列挙になります。
(芸術も人権も専門的な知識は持ち合わせていない適当な認識の上で書いていることを前提に。)


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芸術も、
人権も、
それぞれ、イメージがお金と結びつかない。
人の尊厳に内包される唯一性と、多様性。
そんな性質を持つ代替不可な価値を扱うもの。

対してお金は、代替価値。
それ以上でも以下でもない。

代替不可だからお金にならない。

お金にするためには、換金できる別の価値を見出さないといけない。
これがまた難しい。

人権も芸術も、日々の営みに親しいです。
例えば自分にとって大事なことを好きなように表現・行動すること然り、
好きな人に好きと伝えること然り。
みなそれぞれ違うだろうけれど、
そういう気持ちが重なり合って、日々が動いているように感じます。

多様な価値の流れの輪が幾重にも重なっているとでもいうのか。

そんな代替不可な価値を、
表現し伝える技術が芸術で、
守る道具が人権なのかな。


僕はあまり強い人間ではないなと最近よく思います。
一人では何を決めることも動かすこともできず、
一人で心を痛めてくよくよしている。
なのに、好きなことを考え、表現し、好きな人と話す、
そう自然に暮らせているのは、
守ってくれている人たちと環境の存在のおかげです。

僕が心底憧れ、尊敬する人々は、
自分の力で表現する人、
そして他人のために尽力する人。

これらは、僕がなりたいと思いつつなれない人なのですが、
これって芸術家、人権活動家とも置き換えられるのかもしれない。


表現は、人の心に価値をそのまま伝えることができる。
届ける力。
可視化。

大きくひらべったく広がっている価値観の裏には、
表現されていない(させてもらえない)価値観がある。

表現者は、本質的には、
価値のベクトルの向きを自ら決め、生み出していく人。
表現者がいなかったら、
画一的で、閉鎖的で、問いのたてられない予定調和の世界になってしまう。

その技術としての芸術。


人権を守るとは。

単一的で表面的な価値観の裏にあるものを見抜くこと。
そのはらわたを割いて、飲み込まれた多様な価値観を可視化すること。
そしてその価値観を守る道具を与えていくこと。

「基本的人権の尊重」という言葉を小学生のときに学んだけれど、
これらは自明「であるべき」ものでこそあれ、
自ら掴み取らなければいけない。
今自明なものとして認識されている陰で、
誰かしらの尽力によって下支えされている。

裏を返せば、掴み取られていないところにおいては、
まったくそれは自明なものではない、ということ。
人権問題に取り組む人がいなかったら、
強者の価値観が、弱者の価値観をひねり潰すように覆い尽くす世界になってしまう。

「芸術家がいなくても世の中回るよね」
「人権ってそもそも当たり前のようにあるものだよね」
と考えてしまってもそれはそれで日々はおくられるのだろうけれど。

覆いかぶさる価値観に飲み込まれ流されていて、
異常も異常と感じられない異常な世の中。
そういう世の中では、人間もくそもないんじゃないかと。

そうなってしまうことに危惧していたいし、
今だってかなり危ういのだと、感じていたいわけです。


多様な価値基準を多様に認めていくということは、
営利・非営利それぞれによる価値の流れの重なりを捉えることが不可欠。

営利はお金を生むために活動をする。
非営利は活動をするためにお金を使う。

これは価値の循環の歯車が逆に回っているようなもので、
何も考えず同時に回そうとすると、自身の中で相殺されて動かないか、
自分を軸にしてくるくるコマのように回ってしまう。

でもうまく支点をおいてまわすと、
台風のように周りをぐわーっと巻き込む、
強いうねりを作り出すことができるのだと、
折々で感じます。

人権なり、芸術なり、
非営利色の強い価値の流れも、
営利とうまく混ぜ込んでつくりだすことができれば、
唯一自明な価値基準であるお金の流れを基盤として、
より広く世の中に流し込んでいくことができるような、そんなイメージを最近抱いています。


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深い思いやりに包まれつつ、見事な幸運に出くわしつつで、
どうやら芸術文化方面に、お金周りの仕事で関われるようになってきました。

まだまだ税理士資格取得というスタートラインすらはるかに遠く、
インスタントなプチ絶望に浮気をしがちですが、
やってみたいこともいろいろ出てきましたので、
そんなものは軽やかにポイポイしていかなければならないぞと。

ポポイのポイです!

(軽やかに一歩一歩ということで、なんとなくこの曲が頭を流れています)

2014年4月17日木曜日

見た夢の話

何かの夢を見ていた。
覚めると、6人で同じ大きなベッドの上で休んでいる。
男3人、女3人。
向かいの真ん中に気になる子がいる。

多分また寝てしまって、
夢の中では昔好きだった子がいる。
なにかを二人で話している。

向かいの真ん中の子は隣の女の子とじゃれあっている。
僕は隣の男に抱きしめられている。
僕はあまり抵抗しない。
固い。もう少し動かしたい。

夢に落ちると、体が浮いてなんでもできる、
気分がいい。スローモーションとグラデーションの進行。
なんかしらの克服をして、自由に動けるよう。そんな心持。イメージ。

起きると、みな離れて、
腫れ物を触るような目で僕を見ている。
「うまくいかない、うまくいかない、」とうめいていたらしい。
(と誰かが教えてくれた。)
怖さ、軽蔑、不安、困惑。
なぜ、そんな目で見られたのかはわからない。
とにかく、そこで友達を5人なくした。
非常ベルが鳴る。

ビルから脱出する。
煙のような霧が舞う。
赤。黒。

小さいころの記憶。
古民家に忘れ物をとりに行く。友達が2人。
夏のようだが、涼しい。(無風。)
僕が先にみつけ、2人は奥の部屋に探しに行く。
渡り廊下の右側の部屋のテレビがついている。
ハトの映像が流れている。

野原。
飼い主のおじさんがヒナと楽しく遊んでいる。
勢いあまってヒナの足を折ってしまう。
飼い主は必死に気遣うが、結局折れたまま。
ヒナは飛ぼうとするが、ビッコの足のせいで飛べない。
親からも見離される。
そんな映像が定点記録のコマ送り映像でずっと流れ続ける。
ヒナは羽をはばたかせ続ける。
大きくなり、体が白くなり、
まだ飛べない、飛べないけど、
羽を動かし続け、あがき続けている。
羽の色がつき、そして茶色になり、
(よくわからないけど恐らく年老いていってるんだろうと感じる)
あーこのハトはもう飛べずに死ぬのかな、
となんとなく考える。
飼い主は、なんてくだらない遊びで、このハトの一生を台無しにしてしまったのだろう、
と非難しようとして、(と同時に)
この人は、ずっと撮り続ける責務を感じていたのかな、とも考える。
最後、なぜか、ハトは飛ぶ。
飛べ、飛べ、と映像をみながら、
ずっと祈っていたので、心のつかえがとれもしたが、
このハトは飛んで、
電線の向こう側へ行ってもう見えなくなってしまったけど、
どこへ行くのかな、行くべきだったのかな、
なんていう不安に近いものを抱く。

漠然と何かの理由を探しに本屋へ入る。
アナウンスで閉店時間のお知らせが流れている。
構わず進むと、店長らしき人が、現行犯だよといわんばかりの、
しめしめという顔で、「ちょっと奥まで来てもらおうか」
と言ってくる。
そのセリフ言いたいだけだろ、
今それどころじゃないのにめんどくさいな、
と思いながら、でも閉店時間を無視したのは悪気があったし、後ろめたさも感じていると、
「どうしても今日中に買いたいのですか」
と聞かれ、
「はい、そうなんです、」
と答えつつ必死に今必要な本を考える。
なんとなく本棚を見上げながら本を探していると、
席に座った友人に、「ごまくん、」と声をかけられる。
隣の人をさし、
「この人がね、寄附をどうやったら集められるか知りたいんだって」
といわれる。
それは難しいなあと思ったから、
「それはとても難しいです。」
と答えた。