2014年2月15日土曜日

ふるまい簿記



先日、としまアートステーション構想のプロジェクト、
としまのふるまい『ファウンデーション』の中で、
ふるまい簿記ってワークをさせてもらいました。
日常のふるまい、例えば挨拶するとか遊ぶとか、
そういう感情や行動を「気持ちの取引」にみたてて簿記にしてみよー。
っていうの。

一応、単式から複式までつくって、最終的に自身の気持ちの総体を貸借対照表で表現できるようにしました。
つかったシート6枚、写真とって別のブログのせてるので興味ある奇特な人、見てくれたら嬉しいわーい
http://geijutsukaikei.tumblr.com/

参加者の人たちには、一日の気持ちの出し入れを収支表に落とし込んでもらったんだけど、
みんないろいろ思い思いに書いてくれて、
見たことないもので遊ぶのに慣れてる人なのかな、
本当に素敵だな、
この楽しむ力は結構大事なことだなと。

ふるまいの定量化は無理なので、
数字でなく言葉を積み上げて、
気持ちとふるまいの関係性を簿記的に捉えられないかなあと考えていたけど、
そもそも同じふるまいでも捉え方が違う(勘定科目が違う)とか、
例えば怒りは収入と支出とどっちかとか、
書き出すと減少が目立つけど不思議と気持ちは安定しているとか、
気持ちの隙間も大事なんだとか、
いや、ふるまいの尺度は前進後退なんじゃないかとか、
加速度的なものじゃないかとか、
他の発表者の言ってたニートとかそれによるグルーヴ感とかサイクルとか、余白とか、
で、それらの集積でなんかいろいろ満たされて嬉しい、
みんなファンタジーに付き合ってくれて嬉しい。

「世の中お金じゃないよ、目に見えないけどいいこといっぱいあるよ」
と思っていた大学生のころと比べて、多少考えが成長したかなとは思っていて、
「目に見えるものと見えないものがあって両方大事で、目に見えない(見えちゃいけない)大事なものを見えるようにすることなく意識を向けやすくするにはどうすれば」
みたいな感じに今なっていて、
でもそれ、簿記とか会計を勉強して仕事をさせてもらってるおかげでわかってきたことっていうのが、
また面白い。

アーティストじゃないのにプロジェクトに参加させてくれたとしまアートステーション構想の人たちとか、
旨いエサのついた釣り針を絶妙にぶらさげて吊り上げてくれた絶妙な岸井さんとか、
ありがとうございます、感謝です。簿記的に言うと、寄付収入を結構な額でいただいた感じです。
いよいよ、勉強も仕事も頑張らんとなって。勉強は簿記的には気持ちの支出による機械装置購入、仕事は事業による収益獲得、ってそれはまんまか。

今回の僕のこれ自体は、アートではないけど、会計・簿記でもなくて、
言ってみれば「アートを楽しむためのおもちゃ」づくりみたいに思ってて、
つまりよき鑑賞者、よき理解者に、なっていきたい。
こういうの大事だと思うし。
いろんな世の中の価値、お金とか作品とか行為とか、が、どんどん相対化されていってる気がします。

今回のはあくまでおもちゃであって、
会計と言ってはいけない理由もあって。
先日聞いた話、
「creative accounting」って、粉飾って意味になるんだって!
そりゃあ、やばいね。


2014年2月2日日曜日

都知事選

大勢の人が同じ場所で同じ方向を向いて高揚している瞬間、
吐き気をもよおす。

最近、電車でさえ酔うことがたまにあるのだけど、
三半規管が不調なのかもしれない。

社会に資する、というけど、
一人にならない限り社会はそこにあるわけで、
望むによいもわるいもなにも。
(または、誰にとっても、良いにこしたことはないでしょう。)

何のために決めるの、
何で決めなきゃならないの。

でも決めなきゃならない。

はて、何を決めるんだっけ。


誰がいいとか悪いとか、
争点はなんだとか、
誰かを推すよりも誰かを否定するとか、
はたまた誰がなっても変わらんだろうとか、
みんなビミョーとか、
誰かのせいで台無しだとか、

こういう声は確かに周りからよく聞くし、
なにより僕自身の中にもふつふつよく浮かんでくる。

でも、
あらを探したらきりがないし、
僕らは選ぶ権利はあるけれども、
決して彼らより立場が上なわけではないし、
彼らが舞台上にいて僕らは観客な構図に見えるけど、(そしてすきあらば座布団を投げるわけだけど、)
僕ら客席じゃない。
舞台上、いるよね。

舞台上でののしり合うも、協力し合うも、
どちらだって、劇として成り立つけども、
面白い劇にしたいなら、
舞台上にいて、
演じてるってこと、
見られてるってこと、

はて、どうしたいのか、結末を、endingを。

同じ台本、読んでいかないと。



夢見るべき未来に絶望して、
直視すべき今から目を背けて、
学ぶべき過去に翻弄されてさ、

何に怖がってるんだろう、一体全体。



小学校のころ、プールの時間、みんなで同じ方向にまわって、
流れるプールなるものをよくつくって遊んでいたのを思い出す。

その流れの向きに良いも悪いもなくて、
ただ逆らうことはできなくて。
だから、ぷかぷか浮いて、へらへらして、
流れがおさまるのを待ってた。


今、自分たちが、どの方向に流れをつくろうとしているのか、
知らないうちにみんなでつくろうとしている劇が、どういう方向に向かっているのか。


自分がいると予想される世界、その重心を探して自分がどこにいるか(それはたいてい重心からは遠くに映る)を推し量ることと、
自分を重心とする世界の輪郭を推し量ってなぞることとは、
おそらく同義で、

例えばその輪郭と比するのは、
国でも、
東京でも、
職場だったらどうか、
仲間は、
TVの向こうは、
SNSで感じる世界、
通勤電車、
飲み屋、
サークル、
通りがかりに入った喫茶店、
家族、
そういった、目に見える輪郭と比してどうか、
どの程度ズレているのか、
どこがはみだしていて、どこがへっこんでいるのか、

自分は、そもそも、
世界の輪郭を、社会の輪郭を、
描けているのか。


せりふも名前もなく歓声をあげるだけの群集Aにはならないように。
空気の台本があるとしたら、必死に読まなきゃ。
空気を読ませたら世界一でしょ、日本人。

翻弄されて、目を背けて、絶望してるうちは、
誰を選んだって、それは何も変わらないし、
だから、
すごい怖いけど、
決めるってことを決めないとなって。

選んで、ほらやっぱりだめでしたって言うんじゃなくて、
選んで、誰がなっても、
そもそも東京を考えていくのは誰、
ってことだよね。