渋谷のbook1stの前に、バナナの自販機があってさ、
バナナがパック詰めで売ってんの。
Doleの。
房になってて。
それをさ、見てたの。
おじさんが。
じぃっと。
じぃ~っと見てて。
え、何見てんだろっ、て二度見したけど、やっぱりバナナを見てるの。
どれ選んでも、バナナなのに。
おじさんが、
何考えてたか、とかわかんないけど。
俺はバナナしか売ってない自販機を目の前にして悩んだことないからさ。
そんな発想はねえよ。
おじさんの行動とか、考えとか、そういうの、やっぱ俺じゃねえんだよって、
あたりまえだけどw
でもそんな感覚。
おじさんと俺の接点ってあったのかな。
もしか、ね。
おじさん、今なにしてんだろ。
俺とあのおじさんが出会うこととか、あるのかな。
「バナナ、見てましたよね?」
ってw
もう顔も覚えてないけどね。
(あいつ、今何してんだろ)
ってよぎるけど、もう二度と会わないのかもなあなんて
ごくごく普通に思考してる
携帯にメールしてみると、エラー返ってきたりね
それでも、
(ま、そっか)
くらい。
もう会わなかったら会わないだし
会うときは会うし
好きとか嫌いとかそういうんじゃなくさ
大事な人は、以後会おうが会わまいが、
ずっとじわじわ影響与えてんだって
それでいいしそういうもんだと思う
影響もらって今もじわじわきてる人数えてみたら、指の数じゃたんなくてやめた
(俺は死んだ後も孫に影響をじわじわ与えるじじいになりたい)
今まさに今、
みんな好き勝手歩いてんだからね、
「こっちむけよオラ」って足踏んづけるなんて、恐れ多くて!
だから
「おっあなたもあっち走ってんすか、奇遇ですねえ」
って一緒に走れるとかすごいことだと思うし
んでドリンクとか一緒に飲んだりさ
すると
お互いに手広げて「会いたい!」ってぶつかるとかやべーし
どーん
億千万分の一の確率だし
(つーかそういう電波を実際につなげうるfacebookとかってすげーまじ電波)
会うかな~と思ったらニアミスとか、かすって離れちゃったりとか、
しても、またお互いぐるっと一周してまた会えばいいじゃんか
会えなかったら会えなかったでそれまで!(ちーん)
会えたときのほくほくがやばいと思うぜし
みんな好きに歩いてる
お、お、ねえねえあっち楽しそうだから行ってみようよ~
くらいに袖ひっぱって、
まんざらでもねえ、って顔されてえな
もちろん行った先では自由行動ですがね!!ぐへへ!
筋トレして靴買おうかね。
2012年4月26日木曜日
2012年4月8日日曜日
言葉
「ごとうくん、もう自分のことフリーターっていっちゃだめ」
「暗中模索」
「私も」
涙と
怒ったような
声が震えてた
ずっと居た
今まで知らないところへ
行く
「同じなのよ」
うんじゅうねん
生まれた「時」「点」のまえうしろは
壁もなく
遠くでもなく
ただ
まえの人が
先に死ぬ
走り泳ぎ止まり
「また来いよな」
思い思いにまわる
視線のつばぜり合い
何億光年の時空を錯綜する
こことそこで
それとあれが
散った火花のプリズムスペクタクル
眩しすぎて目を伏せて
30年後どこに誰といんの
今「まだいない」誰かと同じとこで
「じゃ、。また。」「うん、。また。」
と言ってるかもわからんし
そのとき「もういない」誰かが刻んだ刹那を
ぽつぽつと辿っているかも
「わからない」
名前も顔も
言葉も年も性別も
地球人だって宇宙人だって
一人はさびしいし
知らないとこは怖い
いつか死ぬ
あと、コーヒーが好き(もしくは嫌い)
「何考えてんの」
「自分でも触れちゃいけないような気がする」
じゃあ触れなくたっていい
10年顔あわせてたって、だよ、
「おまえのそんな顔、初めてだな」
俺にとってね
「おめでとう」
ってびっくりするくらい嬉しい
本当ですよ
次、いつ会うのかな
会うのかな
必然でも偶然でもなく
自然にね
意志は、継ぎたい
理由なんてない
刹那から始まって
刹那で閉じたら
閉じ込められた時空が見えてくるってね
「じゃ、。近いうちに!」
で精いっぱいだ。
ギレゴト、か。
「暗中模索」
「私も」
涙と
怒ったような
声が震えてた
ずっと居た
今まで知らないところへ
行く
「同じなのよ」
うんじゅうねん
生まれた「時」「点」のまえうしろは
壁もなく
遠くでもなく
ただ
まえの人が
先に死ぬ
走り泳ぎ止まり
「また来いよな」
思い思いにまわる
視線のつばぜり合い
何億光年の時空を錯綜する
こことそこで
それとあれが
散った火花のプリズムスペクタクル
眩しすぎて目を伏せて
30年後どこに誰といんの
今「まだいない」誰かと同じとこで
「じゃ、。また。」「うん、。また。」
と言ってるかもわからんし
そのとき「もういない」誰かが刻んだ刹那を
ぽつぽつと辿っているかも
「わからない」
名前も顔も
言葉も年も性別も
地球人だって宇宙人だって
一人はさびしいし
知らないとこは怖い
いつか死ぬ
あと、コーヒーが好き(もしくは嫌い)
「何考えてんの」
「自分でも触れちゃいけないような気がする」
じゃあ触れなくたっていい
10年顔あわせてたって、だよ、
「おまえのそんな顔、初めてだな」
俺にとってね
「おめでとう」
ってびっくりするくらい嬉しい
本当ですよ
次、いつ会うのかな
会うのかな
必然でも偶然でもなく
自然にね
意志は、継ぎたい
理由なんてない
刹那から始まって
刹那で閉じたら
閉じ込められた時空が見えてくるってね
「じゃ、。近いうちに!」
で精いっぱいだ。
ギレゴト、か。
2012年4月4日水曜日
カネとか信頼とか寄付とか
何かモノとかサービスとかに触れるたびに、
これの正当な対価はどのくらいだろうか?
カネだといくら?カネじゃないとしたら?
と考えるようになってさ。
1000円のランチを食べて、
「高いけど、まあ相応にうまいかなあ」
と感じたとして、
その「相応に」ってなんだろかって話でさ。
あきらかに、
「500円のランチの2倍うまいのが1000円のランチです」
ってのは違うよね。
飯を食いに来て、飯の対価としてカネ払ってるのに、
払ってる中に不純物がいっぱい入ってる。
飯にどんだけの価値があるか
飯以外にどんだけ余分に払っているか
について、適当というか、感覚的というか、考えてもしょうがないというか、、
なんとなあく、「相応か、そうでないか」で払うかどうかを決めてるんだなあと。
渋谷とか都会に出ると、そば一杯食べるにしても、
ヒトモノサービス全てが竜巻のようにぐわーって巻き上げられてぐっちゃぐっちゃになってシステムとか構造とかの原理に着色合成されてモザイク状になって再構成されて、
「ソバイッパイ、ヘイオマチ!」って出てくるイメージなんですよ
だからソバ一杯の本当の価値なんて、わかんね。絶対わかんね
そもそもカネって等価交換のツールだから、価値なんていつだって変わるもので、
それはみんなごく普通に受け入れてる。
マックのハンバーガーが昔は65円だったけど今は100円ってのも、
みんな「デフレも厳しいな」と思うだけ、とか。
でもでもカネって、一応最強の信頼ツールだから、
俺が1000円札に1万円札になれ!!って祈っても、なってくれないし、誰も認めてくれない。
乱暴にいうと、
・日常にあるモノとかサービスとかは、実は価値の判定は一般人はよくわかんね
(プロだって正確にはわかんね?)
・それをきちんと決めてスムーズに等価交換するためにカネがあるけど、それだって相対的なもんで、いくらでも刷れる紙キレ
・「でもカネって尺度は絶対」っていう感覚がある(少なくともぼくには)
「思い出プライスレス」とかあるけど、よく考えたら、世の中全部プライスレスでしょ!
でさでさ、こっからが本題なんだけど(苦笑)、
愛嬌のあるうどん職人のおっさんがいたとして、
そのおっさんが全部手作りしていて、全部原価を把握できているとするね。
「このうどんいっぱいあたり、400円もらえれば、まあぎり大丈夫だ。あとはいくら払うか、おまえさんに任せるわ」
っていわれたときに、いくら払うか。
うどんはめちゃめちゃうまい。東京だと一流店いかないと食えないレベルだとする。
1000円払ったとして、上乗せした600円は、完全に「気持ち」だよね。
「うまかった」「おっさんに共感」「このうどんやの雰囲気好き」とかなんでもいいんけど。
それを600円じゃなくて400円にするか、または0円にするか、って違いは、
食った人の気持の度合いの差かもしれないし、カネの価値観の違いかもしれない。
これはさっきの「渋谷のソバや」とは違うと思うんです。
渋谷のほうは、システムに組み込まれる過程で画一的に決められた値段であって、
食べる人の気持ちなんて関係ないものね。
一対一で直接価値を交換(うどんを食ってカネを払う)するときは、
こういう「気持ち」が結構のってくると思うんすよね。
「きょうはカニが2000円だよ!」
「高いよ!ガキの誕生日なんだ、安くして!」
「おお!あのガキ元気かい?じゃあ1000円でいいよ!これもおまけだもってけどろぼー」
みたいな、適当さw
でもこういう「気持ち」がのった価値の交換って、お互いの信頼があったほうが生まれやすいし、またはこういう行為をへて信頼って生まれていくと思うんですよね。
つきつめれば、物々交換だってそうだよね。
お互いの信頼があって、お互いがそれぞれのものを、だいたいおんなじくらい求めていれば、
もう交換しちゃうし、それでお互い満足。で、またなんかあったらよろしくね、となる。
(気持ちのやりとりってすごいナイーブでめんどくさいから、カネの方がフラットで気遣わなくていいってのはあるけども。)
一応まとめ、
価値を自分で判断して、「いいな」と思った分だけ、対価を出す。
こういう環境ができてくれば、信頼と好感(感謝?)が発現して、価値の交換がぐんぐん好循環になっていくんじゃないかな、と思っていたので、書いてみました。
ふらっと入った店で、
「おっちゃん、うまかったから100円多めにだすよ」とか言えないじゃないですか、今。
で、この「多めに出す」っていう感覚って、寄付と同じ感覚なんじゃないかな、とも思います。
だから寄付が「すげー社会貢献慈善博愛」的なイメージじゃなく、
かるぅい感じで馴染んでいくと、世の中いい感じになると思います(経済的な意味でも)
もう寄付って名前がちょっといやだ。
ちょっと手伝ったかわりに料理つくったる、とかもこういうことだよね。たぶん日頃いつも当たり前のようにしてることー。
現実的な対策とか全然言ってないからあれですが、まあどうでしょうか。
最近考えていることなので、思うことあったら、コメントでも会ったときでもお話できればと。
また長文。駄文。失礼しました。
これの正当な対価はどのくらいだろうか?
カネだといくら?カネじゃないとしたら?
と考えるようになってさ。
1000円のランチを食べて、
「高いけど、まあ相応にうまいかなあ」
と感じたとして、
その「相応に」ってなんだろかって話でさ。
あきらかに、
「500円のランチの2倍うまいのが1000円のランチです」
ってのは違うよね。
飯を食いに来て、飯の対価としてカネ払ってるのに、
払ってる中に不純物がいっぱい入ってる。
飯にどんだけの価値があるか
飯以外にどんだけ余分に払っているか
について、適当というか、感覚的というか、考えてもしょうがないというか、、
なんとなあく、「相応か、そうでないか」で払うかどうかを決めてるんだなあと。
渋谷とか都会に出ると、そば一杯食べるにしても、
ヒトモノサービス全てが竜巻のようにぐわーって巻き上げられてぐっちゃぐっちゃになってシステムとか構造とかの原理に着色合成されてモザイク状になって再構成されて、
「ソバイッパイ、ヘイオマチ!」って出てくるイメージなんですよ
だからソバ一杯の本当の価値なんて、わかんね。絶対わかんね
そもそもカネって等価交換のツールだから、価値なんていつだって変わるもので、
それはみんなごく普通に受け入れてる。
マックのハンバーガーが昔は65円だったけど今は100円ってのも、
みんな「デフレも厳しいな」と思うだけ、とか。
でもでもカネって、一応最強の信頼ツールだから、
俺が1000円札に1万円札になれ!!って祈っても、なってくれないし、誰も認めてくれない。
乱暴にいうと、
・日常にあるモノとかサービスとかは、実は価値の判定は一般人はよくわかんね
(プロだって正確にはわかんね?)
・それをきちんと決めてスムーズに等価交換するためにカネがあるけど、それだって相対的なもんで、いくらでも刷れる紙キレ
・「でもカネって尺度は絶対」っていう感覚がある(少なくともぼくには)
「思い出プライスレス」とかあるけど、よく考えたら、世の中全部プライスレスでしょ!
でさでさ、こっからが本題なんだけど(苦笑)、
愛嬌のあるうどん職人のおっさんがいたとして、
そのおっさんが全部手作りしていて、全部原価を把握できているとするね。
「このうどんいっぱいあたり、400円もらえれば、まあぎり大丈夫だ。あとはいくら払うか、おまえさんに任せるわ」
っていわれたときに、いくら払うか。
うどんはめちゃめちゃうまい。東京だと一流店いかないと食えないレベルだとする。
1000円払ったとして、上乗せした600円は、完全に「気持ち」だよね。
「うまかった」「おっさんに共感」「このうどんやの雰囲気好き」とかなんでもいいんけど。
それを600円じゃなくて400円にするか、または0円にするか、って違いは、
食った人の気持の度合いの差かもしれないし、カネの価値観の違いかもしれない。
これはさっきの「渋谷のソバや」とは違うと思うんです。
渋谷のほうは、システムに組み込まれる過程で画一的に決められた値段であって、
食べる人の気持ちなんて関係ないものね。
一対一で直接価値を交換(うどんを食ってカネを払う)するときは、
こういう「気持ち」が結構のってくると思うんすよね。
「きょうはカニが2000円だよ!」
「高いよ!ガキの誕生日なんだ、安くして!」
「おお!あのガキ元気かい?じゃあ1000円でいいよ!これもおまけだもってけどろぼー」
みたいな、適当さw
でもこういう「気持ち」がのった価値の交換って、お互いの信頼があったほうが生まれやすいし、またはこういう行為をへて信頼って生まれていくと思うんですよね。
つきつめれば、物々交換だってそうだよね。
お互いの信頼があって、お互いがそれぞれのものを、だいたいおんなじくらい求めていれば、
もう交換しちゃうし、それでお互い満足。で、またなんかあったらよろしくね、となる。
(気持ちのやりとりってすごいナイーブでめんどくさいから、カネの方がフラットで気遣わなくていいってのはあるけども。)
一応まとめ、
価値を自分で判断して、「いいな」と思った分だけ、対価を出す。
こういう環境ができてくれば、信頼と好感(感謝?)が発現して、価値の交換がぐんぐん好循環になっていくんじゃないかな、と思っていたので、書いてみました。
ふらっと入った店で、
「おっちゃん、うまかったから100円多めにだすよ」とか言えないじゃないですか、今。
で、この「多めに出す」っていう感覚って、寄付と同じ感覚なんじゃないかな、とも思います。
だから寄付が「すげー社会貢献慈善博愛」的なイメージじゃなく、
かるぅい感じで馴染んでいくと、世の中いい感じになると思います(経済的な意味でも)
もう寄付って名前がちょっといやだ。
ちょっと手伝ったかわりに料理つくったる、とかもこういうことだよね。たぶん日頃いつも当たり前のようにしてることー。
現実的な対策とか全然言ってないからあれですが、まあどうでしょうか。
最近考えていることなので、思うことあったら、コメントでも会ったときでもお話できればと。
また長文。駄文。失礼しました。
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